さきま淳 HISTORY

さきま淳の少年時代は優しいやんちゃ坊主!?

政治家・さきま淳の原風景は、基地が広がる宜野湾の街並みだ。
宜野湾市真志喜の自宅のそばには、米陸軍のキャンプ・マーシーがあった。フェンスの向こうには、コンセットと呼ばれるカマボコ型の兵舎が並び、米軍の病院や米兵の子どもたちの学校、それにPXがあった。
「フェンスのめくれている部分から基地の中に忍び込むことができたんです。米兵に見つかり、ほふく前進しながら逃げたこともありました。大声で呼び止められて、『これは叱られるぞ』と観念しながら近づくと、米兵がポケットからガムを出してくれて、『次からはフェンスの中に入っちゃダメだ』と諭すんです。『イエス、イエス』とか適当に答えて慌てて外に出てるんだけど、1週間もしないうちに、また忍び込んじゃう」 さきまの同級生のひとりは、当時をそう振り返る。

さきまは復帰前後に少年時代を過ごした。当時の真志喜には、現在のような住宅街が広がる面影はない。国道58号線と海との間にあったキャンプ・マーシーと高台にある普天間飛行場に挟まれ、基地の周囲にはタイモの田んぼが広がっていた。
タイモの葉は、表側は濃い緑で、裏側は淡い緑。風で葉が揺れるたびに、まるで虫がざわざわと動いているようだったという。さきまたちは、そこでフナやコイを捕まえ、泥団子を丸めて投げ合った。農家に怒られ、走って逃げることもしばしば。腕白でうーまくーぶりでは誰にも負けなかった。
さきまの2つ年上の姉によると、真志喜から大山にかけて米軍将校が住む外人住宅も多く、ハロウィンにはお菓子をねだって歩いたという。

「淳は黒メガネにちょび髭、それにマントで仮装していました。『ティコティン(trick or treat)」とお菓子をねだると、米袋にいっぱいになるほどお菓子をくれるのです。外人住宅がある地区に行くことを私たちは、『冒険』と言っていました。シェパードのような大型犬に吠えられ追いかけられもしましたが、米軍将校の家には、ウチナーンチュの家にはないようなおもちゃがたくさんあって物珍しかったんです。ああ、私たちとは違う豊かな生活をしているんだなあ、と思わずにはいられませんでした」

父と母が知り合ったのは、東京でのことだ。当時、父の博は宜野湾から進学し、中央大学法学部で弁護士を目指し勉強をしていた。八重瀬町出身の母は、都内の文化服装学院の学生だった。学生結婚した二人は、やがてさきまの姉をもうけた。父は司法試験への夢を諦め、さきまの姉が生後7ヶ月の時に、沖縄に戻ることにした。東京から鹿児島まで列車で行き、鹿児島からは船に乗り継いで沖縄に帰ってきた。その時すでに母のお腹には、さきまがいた。
沖縄に戻った父は、当時の琉球政府の職員となったが、やがて妻とともに真志喜でスーパーを始めた。さきまが5歳の時だという。

さきまの姉は、こんなエピソードを明かす。
「厳しい人でした。かっとなると、感情を表に出すこともありました。淳がまだ小さい頃に友だちと追いかけっこをして、転んでアゴを大けがしたことがあったのですが、父は淳を抱きかかえたまま、『誰がこんな目に遭わせた』とすごい剣幕で犯人を捜して回ったのです。それ以来、その友だちの子は、うちのスーパーにはまったく寄りつかなくなりました。でも、父は情に厚いところがって、楽天的。そして寅さんの『男はつらいよ』が大好き。こういうところは、淳も引き継いだようです」

スーパーの切り盛りで両親が忙しいのをいいことに、さきまたちは毎日、近所を走り回って遊んだ。さきまが通ったのは大山小学校。当時はベトナム戦争のさなかで、そばにある普天間飛行場を離着陸する米軍の軍用機やヘリが5分おきに上空を通過した。当時の学校の窓は防音対策も施されておらず、そのたびに授業が中断されたという。
その後、嘉数中学校に進み、さらに中学3年には、新設された真志喜中学校へ移った。高校は普天間高校だ。

小中学校の同級生は、こう振り返る。
「休み時間は、ビー玉やメンコをやって遊ぶことが多かったのですが、淳は授業が始まるベルが鳴ってもずっとやっている。先生にゲンコツを受けることもあったぐらい。とにかく、その集中力に感心した」
学校に通っていた頃のさきまの様子について、別の同級生はこう話す。
「明るくて、いつもニコニコしながら頭をかいているようなキャラでしたね。勉強をガツガツやるタイプではないけども、社会は得意。一緒にいると楽しいので、誰からも好かれるところがありました」
小学校では、少年野球をやっていたが、中学校ではワールドカップに感化されたらしく、サッカー部に入った。高校で再び野球部に入ったものの、中学時代のブランクがあって技術的にレギュラーになれそうにもなかった。
「それを努力で克服したのが淳。毎晩のように、夜10時頃までひとり居残りで、素振りやティーバッティング、そして筋トレと、練習をしていました。その成果もあって、3年生の時には四番バッターになりました。パワーがあって、ストレートには滅法強かったのですね。ただ、カーブやボール球をすぐ振ってしまうところもありましたけど・・・」
同じ野球部のメンバーだった同級生はこう振り返る。

今のさきま淳を作った鍛錬の学生時代

高校を卒業後、千葉商科大学に進学した。下宿は、東京の下町・新小岩にあった。下宿先を訪ねたことがある、高校時代の同級生は、その質素な生活ぶりに驚いたという。
「神田川の世界のような下宿でした。部屋に風呂が見あたらなかったので、『風呂はどこにある?』と聞くと、流しにたらいを置いて水を浴びているという。当時は、蛇口をひねってもお湯なんて出てこない。真冬でも冷たい水だけで済ますというのです」

さきまの母も、父・博とともに東京の下宿先を訪ねたことがある。
「リンゴの木箱をちゃぶ台代わりに使っているんです。それに呆れて、あわてて瀬戸物屋さんなどを回ってテーブルや食器などを買いそろえてあげたこともありました」

大学では空手部に入った。空手を始めたのは、沖縄ではなく、大学に入ってからだ。ここでも持ち前の努力でメキメキと腕を上げ、主将をつとめるまでになった。
大学の卒業が近くなった頃に、空手部の先輩から持ちかけられたのが、フランスの空手道場で教師役にならないかという話。その道場では代々、さきまの大学の空手部出身者が教師役となっていた。
友人たちに「武者修行に行ってくる」と言い、フランスへと飛び立ったさきまの心境はどのようなものだったのか。同級生のひとりはこう推し量る。

「淳の父の博さんはこの頃には、宜野湾市議会議員になってすでに地域の名士のような存在でした。淳は、その博さんを尊敬する気持ちと、名士の息子とみられることへの反発とが入り混じっていたんだと思います。若い頃なら誰だってありますよね。だから、本土の大学に行き、さらにフランスへと渡ったのでしょう。一度は沖縄から離れたところに自分の身を置いて、もっと俯瞰的にものごとを見たいと考えたはずです」

さきま淳が政治家になったきっかけ

フランスのボルドーで空手道場の指導者などをしていたさきまが沖縄に帰国するのは、30歳のとき。
「フランス暮らしをするうちに西洋かぶれになっていたらどうしよう」
さきまの姉はそう心配していたが、帰国するなり真志喜の自治会を訪ね、会員となる様子を見て、安心したという。地元への思いを決して忘れていないことが分かったからだ。

沖縄に戻ったさきまは、旅行会社で勤務を始めた。ところが、フランスまで行かせてもらい、さあ、これから親孝行だという矢先に、父の博が急死した。当時、父は市議会議長。公務中にくも膜下出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

さきまが小学6年だった1976年にキャンプ・マーシーが全面返還されて以来、真志喜地区は、基地の跡地だけでなく、周辺の埋め立て地を含めた大規模な再開発が進んでいた。現在、見られるようなコンベンションセンターや大型ショッピングセンターなどのプロジェクトが次々とスタート。さきまの父は、真志喜を地盤とする市議会議員として深く関わった。
さらに、1996年に日米両政府のSACO合意によって、普天間飛行場の返還が決まり、宜野湾で「マーシーの次は普天間だ」と期待が一気に高まると、市長候補に名前が挙がるほどの有力政治家となっていた父は、返還を願う市民の運動の中心に立って奔走するようになる。

さきまの姉によると、その頃の博は「これから宜野湾はどんどん変わるよ」が口癖だったという。
そんな最中の急死だ。
父を支えていた後援会は、補欠選挙にさきまが出るべきだと推した。当時、さきまは36歳。父への反発もあってフランスに渡ったさきまだったが、これからは父に代わり普天間返還に向けて取り組もうとの思いを強くしたのだろう。補欠選挙への立候補を決意した。

ただ、支援者らを前に立候補の意思を明らかにする場は、妻・こず恵との婚約を明らかする場ともなった。これはさきまの母の強い意向だ。
「選挙に出るとなると、私1人では支えきれないから、ちゃんと結婚して出てちょうだい」
そうさきまに伝えたのだという。

初陣となった補欠選挙について、これを手伝った同級生のひとりによると、「政策もへったくれもない。大きな声でがなり立てるだけだった」。今でこそ大勢の聴衆を前にしても延々とスピーチをするが、この時はうまく喋ることが出来ずに、「淳、しっかりしろ!」と応援ともヤジともつかぬ声をかけられることもあったという。
それでも無事に当選。以来、市議会議員、県議会議員、宜野湾市長と、立場を変えるたびに幾度も選挙を経験しているが、いまだ負け知らずだ。

さきま淳の宜野湾市長時代から知事立候補まで

宜野湾市長時代の最大の功績は、米軍西普天間住宅地区の返還とその跡地利用を多く進めたことだ。ここには琉球大学医学部や付属病院の移転が決まった。基地の街から沖縄の中核的な医療拠点へと変貌を遂げることになる。

一方で、父が実現に向けて奔走した普天間飛行場の返還は、遅々として進まなかった。宜野湾市のど真ん中に居座り、市民はどこに移動するにも、基地の周囲を大回りすることを強いられる。その返還は市民共通の悲願となっていた。

「さきまさんは、お父さんの遺志を継いで、次こそは普天間だという思いを誰よりも強く持っていました。キャンプ・マーシー返還後の経緯をよく知っていましたし、さらに、那覇の新都心や北谷のような大規模な基地返還では、決まってから実際に再開発が始まるまでに膨大な時間がかかったことを熟知しているだけに、指をくわえて見ているだけではダメだというのが彼の信念です。一日も早い返還を求めて政府に幾度となく働きかけていただけでなく、宜野湾市としてなにができるのか、いつも考えていました」(宜野湾市の幹部)

普天間飛行場の返還がいっこうに実現しないことについて、さきまはどう考えていたのか。さきまの姉によると、よくこんな言葉を口にしていたという。
「宜野湾がかわいそう」
SACO合意から22年。2004年には普天間飛行場のそばにある沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落し、昨年12月には普天間第二小学校のグラウンドにヘリの窓が落下する事故もあった。宜野湾市民はいまも危険と隣あわせであることを強いられている。
「宜野湾市民はどれだけ我慢すればいいんだ」
そう嘆いていたこともあったという。
「宜野湾はどんどん変わっていくと期待していた父に、『返還が実現しました』と報告できない状態が続いていることに、淳も苦しんでいるのではないでしょうか」(さきまの姉)

同級生たちは、いまもさきまを囲んで模合をたびたび開く。そこでは互いに遠慮は抜きだ。みんなで徹底的に議論する。知事選挙の候補者としてさきまの名前が取り沙汰されていた頃に、こんな話をしたという。

「私たちは『もっと市長を続けたほうがいい。まだ普天間は返還されていないじゃないか。これをやり遂げるべきだ』と言ったんです。でも、淳はずっと難しい顔をしている。かと思うと、帰りのタクシーのなかで、淳は『ごめんな』って言うじゃないですか。ああ淳も悩んで、でも出ようと思っているんだなと分かりました。淳はきっと知事になって普天間の返還を今度こそ実現しようと考えたのでしょう。それならば、私たちも支えるまでです」

知事選挙への立候補を決意したさきまは、選挙戦で「県民の暮らし、最優先。」と並んで「対立から対話へ」を掲げる。
宜野湾市の職員のひとりは、こう指摘する。
「さきまさんは、市長時代に『予算が1円でも取って来れるのなら、そのための努力はなんだってする』と言っていました。いくら市民のためになる事業を考え出しても、予算がなければ何もできない。そのためには、国との対話によって予算を確保することが欠かせません。普天間の返還に向けたプロセスも同じことです。国との対話がなければ、実現しないはずです。翁長県政の4年間で県と国との間に争いが絶えず、将来のために必要な多くの事業が立ちゆかなくなりました。『対立から対話へ』には、こうした状況にもう終止符を打ち、着実に基地返還に向けて前に進もうという意味が込められているのではないでしょうか」

さきまが大学在学中に沖縄に帰省した時のことだ。小さな路地で不良にからまれたことがあった。
「私たちが気づいて駆けつけたので、向こうも手出しすることなく去りましたが、さきまは大学で空手をやっているというのに、戦おうともしませんでした。『なんで空手を使って撃退しなかったんだ』と聞くと、『殴るのも痛いし、殴られるのも痛いだろ』って答えたんです。これが淳の考え方なんです。国と裁判をやっても、国も県も痛い思いをする。双方が不幸になるんです。自分の思いだけを一方的に押しつけて拳を振り上げるなんていう発想は、淳にはないものなんです」
同級生のひとりが記憶するこの出来事に、佐喜真が目指す沖縄のありようが見えてくる。

※さきま淳HISTORYは、
佐喜眞淳さんご本人のお母様、お姉様、ご友人(同級生)への
インタビューを元に構成しております。

ページのトップへ